今回は、沖縄県知事、玉城デニーさんの2人の母親、家族構成や生い立ちについて書いていきたいと思います。
2人の母親にはそれぞれ呼び名があるようですので、こちらについてもまとめていきます。
【壮絶】玉城デニーには母親が2人いる!家族構成や生い立ち
沖縄県知事の玉城デニーさんには、実は2人の母親がいます。
どういうこと?と思ったかもしれませんが、
それが、生みの親と育ての親です。
それでは、玉城デニーさんの生い立ちから2人の母親について見ていきましょう。
玉城デニーさんは沖縄の米軍基地の駐留していた米兵の父と沖縄県伊江村(伊江島)出身の母の間にハーフとして生まれます。
父は、デニーさんがお腹にいるときに、母国のアメリカへ帰還命令が出て帰ってしまいます。
デニーさんを出産後、母とデニーさんも父の母国であるアメリカに渡航する予定でしたが、母が父を追うことは無く、沖縄で暮らすこととなります。
※当時「デニス 」という名前であった。
母は「これから行っても苦労するだけだから」とアメリカへは行かないことを決意し、女手一つでデニーさんを育てることを決めたのです。
そんな母は生活費を稼ぐため、住み込みで働き、玉城デニーさんは1、2歳~10歳まで母親の友人宅に預けられ、そこで育っています。
その友人の方が玉城デニーさんの育ての母(写真の方)となります。
幼い頃を実の母親と離れて生活していたと聞くだけでとても驚きですね。
玉城デニーさんには、このような壮絶とも言える幼少期の過去があります。
デニーさんはそんな2人の母親について、それぞれこのように呼んでいます。
生みの親の呼び名:「アンマー」(名前:玉城ヨシ)
育ての親の呼び名:「おっかー」(名前:知花カツ)
と呼んでいるのだそうです。
ではいったい、生みの親と育ての親はどういった方だったのかを見ていきたいと思います。
生い立ち:生みの親(ヨシさん)について
生みの親であるヨシさん「アンマー」は、当時1、2歳だったデニーさんを友人宅へ預けて住み込みで働いていました。
母の職業は飲食店(バー)勤務(名護市辺野古)だったようです。
バー勤務と言っても、住み込みでお店の掃除をして昼夜働いていたようです。
母は父から手紙でアメリカへ来てほしいと連絡があったけれども、
デニーさんが2歳の頃、アメリカへは行かないと決意して思い出の品をすべて処分し、女手一つで育てようと決心しました。
デニーさんも父親について母に尋ねたけれども、母は「全部忘れた!」と言って何も語ってくれなかったそうです。
唯一、しつこく聞いて父のファーストネームだけは教えてくれたのだとか・・・
それが・・・
「ウィリアム」だと。
それ以上は一切語ることははく、父の出身地も知らないそうです。
母は月に1度、友人宅の与那城(「おっかー」宅)に帰ってきてデニーさんと会う生活を送ります。
そんな中、小学校4年生の時にやっと、一緒に住むことができるようになり、
名前についても「デニス(Dennis)」から「康裕(やすひろ)」へ改名もしています。
そんな、実の母「アンマー」ですが、母が幼い頃も壮絶な過去をお持ちでした。
10歳で捕虜となった母「アンマー」
玉城デニーさんの母は、自身が幼少期の戦争体験を語ってくれたそうです。
うちのおふくろは10歳で伊江島で捕虜になって座間味の慶留間島につくられた収容所に移され、そこからまた別の場所に移されたと聞きました。
https://shinsho.kobunsha.com/n/n4bae83f2ef0e
慶留間島には長くて2年ぐらい収容されていたと聞いています。収容所には、おふくろの母の親父(デニーの祖父)、おふくろの兄とか親戚が何人かいたとも言ってました。ヨシの兄の玉城彦弘が12歳ぐらいです。おじ(ヨシの兄)は2人とも、戦争で民間人として犠牲になっているんです。現地で駆り出されて、斬り込み隊のようなことをさせられたんじゃないでしょうか。
https://shinsho.kobunsha.com/n/n4bae83f2ef0e
伊江島は戦闘が激しかったんだけど、おふくろの記憶によれば、当時、家には日本軍の兵隊さんたちが入ってきていて、元いた家族は馬小屋や離れにいたらしい。当時は、あちこちに兵隊が駐屯していて、地元民がご飯をつくって持っていったり世話をしていた。で、アメリカがやってくると聞いて、すぐガマに逃げて、大砲の音が聞こえ始めたと思ったら、すぐに捕虜になったんだと思います。母の隠れていたところはそんなに戦闘が激しくなかったそうなんです。
とても辛い、戦争、捕虜体験をしたお母さんだったんですね。
聞くだけで胸が痛みます。
のちに、デニーさんを産み必死になって働いていますが、
きっとデニーさんを生きがいに頑張っていらっしゃったのだろうと想像がつきます。
そんな実の母「アンマー」ヨシさんは2019年、85歳でお亡くなりになっています。
女手一つで育て上げた玉城デニーさんが沖縄県知事にまで上り詰め、実の母としては息子を誇りに思っていたのではないでしょうか。
生い立ち:育ての親(知花さん)について
玉城デニーさんは、実の母が住み込みで働きに出ている間、
1、2歳~10歳まで、与那城村の「おっかー」知花カツさん(母の友人)に里子のように育ててもらっています。
玉城デニーさんは、「おっかー」知花カツさんを自身の人間性を養ってくれた方だとも語っています。
とても優しい方で、やんちゃ坊主のデニーさんに対して、「おっかー」から叱られた記憶がないと語るほどの方だったようです。
「おっかー」の実の子では無くても、愛情を持って育ててくれたとデニーさんは語っています。
玉城デニーさんはハーフだったこともあり、幼少期からよくいじめられていたのだとか。
泣き虫だったデニーさんは、いつも「おっかー」が「どうしたの?」と声をかけてくれたそうです。
そんな「おっかー」が沖縄のこのようなことわざを教えてくれたそうです。
「カーギヤ、カードゥヤル」
カーギは「容姿」、カーは「皮」です。「人の容姿は一枚の皮でしかない。一皮剥げば、みんな同じように赤い血が流れているでしょ。人を見た目で決めつけてはいけないよ」というメッセージでした。
yahooニュース
さらに、こういう言葉も・・・
「トゥーヌ、イービヤ、ユニタキヤ、アランドー」
10本の指はどれも同じ長さではないよ、でも全部大切だよ、みんな個性があるんだよ、という意味です。「だから、あなたの姿や形が周りと違っていても大丈夫。あなたがアメリカ人に似た顔で生まれてきたのも個性なんだから、卑屈に思うことはないよ」とも言ってくれました。
yahooニュース
この言葉以来、デニーさんは肌や目の色が違うことをコンプレックスだと思うことが無かったそうです。
さらに、人を容姿で区別することも無かったそうです。
「おっかー」である知花カツさんは、夫は戦死してしまい、残された娘2人、息子1人がいて、デニーさんを義理の兄弟としてとても可愛がってくれたそうです。
そんな素敵な人情溢れる「おっかー」知花カツさんにデニーさんは育てられていたのですね。
以上
玉城デニーさんの2人の母親について書いていきました。
壮絶な過去のお話に、つい涙が出てきそうでしたね。
最後に玉城デニーさんのプロフィールです。
玉城デニーさんのプロフィール
名前 | 玉城デニー(たまき でにー) ※本名:玉城 康裕(たましろ やすひろ) |
生年月日 | 1959年10月13日 |
血液型 | O型 |
出身 | 沖縄県 うるま市 |
身長 | 164㎝ |
職業 | 日本の政治家(沖縄県知事) 元タレント |
趣味 | 映画鑑賞 バンド 空手 釣り |
まとめ
いかがでしたか。
今回は、沖縄県知事、玉城デニーさんの2人の母親について書いていきました。
玉城デニーさんは苦しい戦後を、2人の母親に愛情を持って育てられた過去があって、
今の玉城デニーさんがいるんだと感じました。
これから沖縄県知事として頑張っていってほしいですね。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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